こちら私の遺言書。

愛すべきオタクたちへここに遺言を残す。

円舞(ワルツ)は一人じゃ踊れない(2020年観劇記録pickup No.1)

 

※文劇2ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感想として

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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すごいエモかった。

 

 

 

 

 

 

評価でいうと

演出:☆☆☆☆☆

演者:☆☆☆☆☆

運営: ☆☆☆

エモさ:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

くらいエモかった。

 

 

 

 

 

 

 

そう思ってたら、演出家も

 

https://twitter.com/koutaroyositani/status/1215237307306872833?s=21

 

すごいエモがっていた。いや、アナタがつくったんでしょうに。

でもこれ、一概に自画自賛という訳ではなく、本当に今作は「エモい」んですよ。なにがエモいのかは以後参照。

 

と、いうことで、2020年最初の観劇はこちら。昨年末より上演されている「舞台 文豪とアルケミスト〜異端者ノ円舞台(ワルツ)〜」でした。

やはり舞台の感想とは通ってる最中に書くのが一番熱が入ると思うので、感想が湧き出る舞台については、今年度はこうしてピックアップしていく形をして取ろうと思います。自分が前書いたブログ読むのって結構面白いとわかったので、これからはより鮮明に書けたらなと。他の舞台は昨年度同様、四半期ごとくらいでまとめますね。

 

で、何がエモいのか。順を追って説明したいと思います。世界観の説明は割愛するので、詳しくは前作のブログを読んで欲しいです。

 

 

1.主題

あらすじをとても簡単に説明すると、生前からの親友である志賀直哉武者小路実篤。前作にも登場したこの二人の「友情」、そしてそれが内包していた闇をめぐるストーリーとなっていました。

今回侵蝕された本は以下の白樺派の三冊、私はメインの「友情」だけ読んだことなく、本屋でもみつからなかったためググるだけになってしまいましたすみません。

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1.カインの末裔/有島武郎

2.友情/武者小路実篤

3.暗夜行路/志賀直哉

 

 

 

内容については後で軽く触れます。

 

 

2.それぞれの「友情」のエモさ

テーマは友情、ということで、今作では友情について登場人物たちがそれぞれ内心を吐露する場面があるのですが、それが、まず、エモい。

 

今作から登場した萩原朔太郎

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は、志賀との友情を信じ真っ直ぐ前向きなムシャにこう問いかける場面があります。

「どうしてそんなに誰かを信じられるの?友情なんて所詮いっときのまやかしだ。僕が信じた人はみんな、別の道をいってしまったよ。」

 

また、同じく新登場の自然主義島崎藤村

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は、「友情を失った経験があるのか?」と国木田に問われ君がそれを言うのかい?僕は置いてかれてばかりだよ。国木田にも、花袋にも……なんてね。」

と、茶化しながらも生前自分が友人に先立たれ抱えた孤独を吐露します(ここの島崎の芝居がエモくて本当に良いので是非見てほしい)。

 

そして今作の解釈のポイントとなるので覚えておいて欲しいのですが、この時朔太郎はムシャの助言で「自分の孤独(失われた過去の友情、しかしそこから朔太郎の作品はうまれている)をもっと愛する。」という結論に、島崎は「まあ、過去のことは今なにを言っても仕方ないさ。」とサラりと話を終わらせているんですよね。

私はこれを、「友情とは、結局消えゆくものである」という認識がこの二人の根底にあるか、もしくは「友情を失うのは酷く哀しい。だから、はじめから失われないとは信じない」という考え方が生前の経験からうまれているのではないかと解釈しました。ゲーム原作の太宰くんのセリフの中にもありますが、彼の思想から言えば文学は弱い人の心に寄り添うためのもので、だからこそ人の孤独を知る文豪が多いのはある意味当たり前なのだと思います。

 

一方で続投キャラクターのアンゴは今作こんなことを語っています。

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「太宰やオダサクとは親友だったが、同じ道を歩んでいた訳ではなかった。そうしたら……いつのまにか、消えてしまった。同じ道を歩んでいたら…………。」

私ここで毎度泣いてしまうんですが、これもアンゴが生前を思い出しての発言。太宰もオダサクも若くして亡くなってしまい、一人残されたアンゴは、どんな気持ちだったのか。前作では新宿を歩いてそうなDQNグループ感を出していた三羽烏ですが、この背景を知るととてもエモくなってしまいますね。

そして、先ほどのセリフの最後は志賀への「アンタたち(志賀とムシャ)は、ずっと一緒にいたんだろう?(おれたちたは、違うけれど)」と続く訳で、アンゴもまた「友情は消えゆくものだ」という先ほどの二人と同じ認識に立ってると解釈できると思います。

 

そして今回多くは語られていないものの、芥川

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もまた生前「友情」を失っています。これは前作参照ですが前作の終わりは「人は生きている限り誰かを傷つけて、でも、それでも生きてていい。」という形なので、根本的に失われた友情については何か解決している訳ではないんですよね。前の三人と同じくです。

 

 

 

 

3.志賀と武者小路の「友情」のエモさ

では、主演の二人の友情という思想は他の文豪達とは違うのかという話ですが。

 

前作でも太宰くんに「いつもベッタリしている」みたいなこと言われていた訳ですが、今回は主演なので出番も多くありえんずっとべったりしてました。今時、相方を「バーカ♡」とデコピンするとかいう古の少女漫画みたいな愛情表現をするのは、多分文アルの志賀さんくらいなのではないでしょうか。まぁムシャはいいデコしてるもんな、気持ちはわかるよ(中の人の悪口ではない)。

そして、志賀とムシャの友情は、志賀の「心を打ち明けられる友になって欲しい。」という言葉からはじまったということが回想で描かれており、その言葉どおり志賀とムシャは生涯ずっと一緒であったと何度も劇中反芻されています。この二人、史実ではたしか結構長生きですし、アンゴのような突然のあまりに早い哀しい別れ、ということもおそらくなかったのではないでしょうか。

 

しかし、完全に私の解釈とはなりますが、前向きで真っ直ぐなムシャもまた生前は「友情は失われる」という考えにあったのではないかと。

というのも、物語の最後、ムシャは志賀にこう吐露するんですよ。

「本当はずっと不安だったんだ。売れた志賀が、僕を置いて、どこかに行ってしまうんじゃないかって。」

えー!?なにそれかわいいー!?!?!?

という感じなんですが、では一方で志賀はどうだったのか。

 

劇中志賀が、一人で「友情」に潜書したムシャを助けに行くか、それとも自分の身を守るかという選択を迫られる場面がありますが、志賀は

「たしかムシャの『友情』にもこんな場面があったな、友情をとるか、それとも愛すべき人をとるか………俺は、両方だ。

と『愛すべき友』を選ぶという宣言をします。

これは、ムシャが先述の理由、売れた志賀への不安、嫉妬を理由に書いたとされる「友情」の物語の破壊を示しているのではないでしょうか。

…とかいってなんだかややこしくなってきて私の意図が伝わってるか不安なので、ここて最初に書いた侵蝕された本の流れをここで一度確認しようと思います。

 

1.カインの末裔/有島武郎

2.友情/武者小路実篤

3.暗夜行路/志賀直哉

 

番号は侵蝕の順なのですが、この順は確実に意味があるものとなっていて。

まず、はじめに侵蝕されたカインの末裔はこれ、作品を読んでなくても作品のモデルの聖書を知ってると一発でわかるんですけど、カインとは兄弟を、兄弟だけが神に認められた嫉妬で殺してしまった聖書の登場人物を指しています。

続いての友情はムシャが「志賀への怨み(嫉妬)をこめて書いたものだ。」と言っており、作品の中の侵蝕者のボスも志賀そのものとなっていました。

白樺派を潰そうと目論んだ侵蝕者は、白樺派の面々の中にある不安、嫉妬に着目したんでしょうね……。

最後にムシャに「友情は志賀への怨みを書いたものだ。」といわれ、心が弱った志賀の暗夜行路が侵蝕される訳ですが、暗夜行路の冒頭は

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となっており。

ムシャのことを信じられなくなった志賀の心に付け入られたのかと。

ただ、暗夜行路の内容はとても端折っていうと「どんなにつらいことがあっても、この人(夫)とともにいよう。」みたいな話なので、これも今作のストーリー展開を示唆しているともいえるかもしれないです。

 

話を戻しますが、志賀は深傷を負いボロボロの身体で、ムシャに言葉でも傷つけられて、それでもムシャの「友情」の登場人物のように自分を守るのではなく、ムシャを助けに行く選択をします。そこに理由なんてなく、ただ誰よりも大切な親友だから。たとえ今は側にいなくても、ずっと側にいた親友だから。

先述のように他の文豪たちや、そしてムシャも「友情は消えゆく」という概念をなんとなく持っている。しかし志賀だけは、「本当の友情とは、離れていても、互いを想うことだ。」と友情は消えることがない、と信じているんです。すごい真っ直ぐなイケメン。

だからこそ、友情という作品のストーリーを打ち破って、ムシャに本当の自分たちの友情を思い出させることができた。そして二人きりでグーで殴りあい、内心を吐露し。互いの蟠りを解消するという。ええ?めちゃめちゃエモい。

 

 

4.「理想郷」がエモい

原作ゲームでもムシャが良く口にする「理想郷」ですが、今作ラストのシーンは「志賀がいれば、そこが理想郷かも。」とムシャが照れながら言うというもの。ムシャの言う理想郷って、誰もが個性を活かせる社会ってやつらしいんですが、確かに文劇での芝居をみてるとムシャは誰にでも優しく明るくワガママではあるけれど、特に志賀には横暴で甘えん坊。志賀は芥川や他の文豪にはお兄さん面しているが、ムシャの前では形無しで赤ちゃんのようになってしまったり大人気なかったり。二人とも、ありのままをさらけ出せる存在がそこにいるなら確かにそれは理想郷かもしれない。エモい。

 

 

 

5.副題がエモい

諸説あるかもしれないですが、3.で書いたことから今作の副題の「異端者」は志賀を指してるのだろうと私は考えています。一人だけ、友情を真っ直ぐに信じた人ということで。

また、最初の方に書いた通り、太宰くんいわく文学は「弱い人の心に寄り添う」、人の孤独に寄り添う物。作家の孤独を写したもの。

そんな中で、志賀だけは孤独ではなかった。芥川が絶賛する「志賀さんの心の美しさ、まっすぐさ。」は、いつもそばにムシャがいたからこそだと思うんですよ。そういう意味でも、「異端者」なのかなと思います。

 

謎だったのは、円舞(ロンド)の部分でした。

ロンドとか破滅へのロンドくらいしか知らないもん私。

少し調べたのですが、単純に三拍子だから?(白樺の三人)とか、ロンドは上流階級のイメージがあるから白樺に合うとかそのくらいの理由かもしれませんが。

でも個人的に思ったのは、ワルツって要するに社交ダンスだし、ペアでやるものなので、今回の志賀と武者小路のストーリーを表すのにぴったりなのかなと。それにワルツは円を描いて踊るから、ずっと終わらないし。

志賀がムシャを誘い、ずっと二人で歩み続ける。ストーリー的にもそうなってますし、そういうことなのかな。エモい。

 

 

さて、長々と書きましたが、今作も毎日エモい気持ちにさせてくれる舞台 文豪とアルケミストに感謝感謝圧倒的感謝をしてここまでにしようかと思います。

この舞台みた人、あまりのしがむしゃっぷりに全員震えてしまったと思うんですが、単にそういう意味で面白いと言っている訳ではなく。文劇は前作も今作も「人の人へのどデカイ感情」を観客に伝えるのがめちゃめちゃうまいからエモい、となるんですよね。前作なら太宰くんから芥川先生への尊敬の先の愛を、今作は志賀のムシャへの友情の先の愛を。この愛とは、単にラブではなく「人の人へのどデカイ感情」を指していて。その感情に、観客は目を離せなくなり世界観に引きずり込まれる。だから文劇は出てるいるキャラクターをいつのまにか愛しく感じるのかも。

 

もしまだ舞台みてなくて気になった方がいたら、是非ニコ生配信を買ってみてください。私が洗いざらい書いてしまったから進研ゼミでみたやつだ状態になったらごめん。

絶対に3はあると思うんですけど、この流れだと次作は自然主義と朔太郎が中心になるのかな?そろそろ私の泉鏡花ちゃんは出ないんですかね?????

はやく舞台上でプリプリ怒ったり、秋声とうまくコミュニケーションがとれないすがたがみたいですね。公式さん頼みました。

 

今年は一月からいろんな舞台をみれるので、また感想書いていけたらなと思います。

 

ではでは〜!